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Akihabara otaku in 'Mechademia Vol. 5'

01.05.2009 by Patrick W. Galbraith


This is a Japanese translation of an article titled "Akihabara: Conditioning a Public 'Otaku' Image" that will be released in "Mechademia Vol. 5" in 2010.

これは、日本の大衆文化専門学術雑誌、「Mechademia Vol. 5」(2010年)に掲載される記事の和訳である。






公の「オタク」のイメージを左右する秋葉原

ガルバレス・パトリック・ウィリアム、東京大学学際情報学府情報学環


1. 秋葉原におけるオタク

本稿は、秋葉原とオタク[1]のイメージの社会的変遷を考察するものである。近年秋葉原は再開発プロジェクトが進み、世間から注目される場所となってきた。それと同時に、秋葉原を訪れる趣味に没頭する若者、つまりオタクのイメージは、その外部要因によって再構築されている、と考えられる。以上の仮説を元に、2004年から2009年にかけて秋葉原で民族学調査を行なった。その結果、変化する秋葉原と同じようにオタクそのものも経済的・社会的・政治的な力によって左右されていることが明らかになった。一般の日本人にとってはオタクとは、アニメ、マンガ、ゲームなどの熱心なファンで、まだ一人前の社会人ではない存在である。このような人々が集まる秋葉原は、「オタクの聖地」とされており、故に、主流社会から乖離している空間と言えよう。それにもかかわらず、2007年の国勢調査[2]によると、秋葉原は訪日する観光客の人気エリアランキング10位の場所であった。言い換えると、秋葉原は外国人にとって東京ディズニーランドより魅力的なのである。このようなことから、秋葉原には二つの顔があることが明らかになる。つまり、秋葉原は同時にオタクの個人的な場であり、日本のポップカルチャーという公の場でもあるのだ。秋葉原はそれまでいわば「オタクの個室が都市空間へと拡張した」[3]ような場所であったので、そこに一般人が入るためには掃除をする必要があった。正確に言うと、オタクのサブカルチャーがポップカルチャーに転換したため、オタクのイメージは再編成されるほかなかった。多くの日本人がオタクの個室を初めて目撃したのは、1989年の宮崎勤による連続幼児殺人事件のニュースだと言われ、そのため今まで抵抗感が強かった[4]が、オタクと秋葉原のイメージは最近になって一新された。[5]メディア言説を分析してみると、2005年を境にオタクがクール・ジャパンの象徴とされるようなイメージの転換が起こった。 もはや、オタクの象徴とその実像は切り離されており、よく矛盾が見られる。例えば、バラエティ番組に出演するオタドル(オタク・アイドル)[6]などが存在する一方、ニュース番組では少年犯罪とオタクが表裏一体のように報じられている。オタク・イメージの緊張は二分された秋葉原の都市風景に投影されており、今や、街の半分はオタク向けニッチ産業で他の半分は再開発地域の高層ビルになっているのである。[7]

以下では、秋葉原の物理的な変化を通してオタクの大衆(popular)・公的(public)・政治的(political)イメージにおける進化を見る。理論は、森川嘉一郎[8]に基づいて形成されたものである。森川の研究によると、秋葉原にオタクが集まったために、街全体がオタクの趣味や人格を反映するようになったという。[9]すなわち、秋葉原はオタクの個室の様子を公に表現している。さらに、政府の開発計画によって発展した新宿や、鉄道会社のデパートを中心とする池袋とは異なり、開発されなかった秋葉原では特定の勢力がなかったためにオタクがそこを支配した、と森川は強調する。[10]森川の主張は出版当時の2003年までは当てはまるものの、2003年以降の秋葉原は全く違うものになった。再開発によって建設されたビルに見えるように、政治的・経済的権力は秋葉原に到達してきた。森川自身もこれを認識し、2008年12月に出版された増補版では秋葉原の変化を扱っている。[11]政治的計画やメディアの特集番組[12]によって秋葉原が公開され、その影響により、オタクの避難場所が「危険な場所」に変質したと森川は強調する。[13]つまり、秋葉原が周囲から視線を感じる場所になったため、オタクが自分の意志で避難し、本物のオタクに取り代わってカメラの前で「オタク性」を演じる若者が秋葉原を独占するようになった。しかし、筆者のデータから見ると、秋葉原の公開では、「本物」のオタクが追い出されて新しい客層に取って代わられたというより、むしろ秋葉原の公開に役立つオタクとそのイメージが管理されたという問題である。「オタク大移民」のような避難でなく、秋葉原では「オタク」のイメージとそれに当てはまる人、その認識が変化したと考えられる。サブカルチャーがポップカルチャーへ、秋葉原が個人から公の場所へ、そしてオタクが見たくない非社会的存在から見せたい象徴へ、秋葉原に見られる変化は一様ではなかった。オタクは自らの意志でスムーズに去っていった訳ではなかった。いわゆるクールなオタクのイメージが秋葉原に現れた結果、オタク活動の可能性が限定されてきたのではないかと考えられる。今の秋葉原を熟考すると、様々な力関係を見逃すことは出来ない。秋葉原と秋葉原におけるオタクは圧力の交差の上にあるからである。

本稿では、主に秋葉原が受けた経済的影響と国際的影響に注目し、この二つの点に現れるオタクの包括と排除を明らかにする。秋葉原の再開発や混乱は、忌み嫌われたオタクの「非社会的」な存在を現代日本社会の最先端のようなイメージに変換する運動と相まって、現実のオタクへどのような影響を与えるかを窺わせる。例えば、日本の現代文化を紹介する書籍「COOL JAPAN:オタク・ニッポン・ガイド」(JTB, 2008年)などにおいて、「オタク」は一体どのような意味になっているのか。そして、そのガイドを手に入れ、実際に秋葉原に行ってみる人々は、どのようなオタクを期待しているか。そのオタクは想像上のものであろうか。もはや存在しない「おたく族」であろうか。「クール」なオタクは想像としては役立つけれども、現実のオタクの存在はオタク・イメージを再構築する障害になる。故に、ショーケース化した秋葉原ではオタクが追い出されている。森川が言及したように、秋葉原はそこに集合する人の趣味を反映する。しかし、秋葉原はもはやオタクだけの場所ではなくなり、その町風景は二つのテイストによって二分された。そのような論争的なオタクと秋葉原の見通しを考えていこう。

本稿のデータは秋葉原で活動しているオタクを5年間の参与観察にて研究したものから成る。森川の本の後、関連する研究が欠乏しているので、筆者は独自のデータを使用する。[14]秋葉原の変化が加速すると共に、筆者は非営利的な「秋葉原・オタク・ツアー」[15]を開始し、毎週日曜日に、外国人に「失われつつあるオタク文化」を紹介するサービスを提供した。そこにおいて参加者にインタビューを行い、調査のデータを収集した。さらに、秋葉原の住民、店舗経営者、区の代表者などと繋がりを築いた。ツアーが有名になるに従って、メディアや自治体の人と話せるようになり、表面には現れない様々な情報を知る機会を得た。方法論の限界として、筆者自身による解釈とオタクの情報提供者の意見を出張し過ぎる可能性を十分に認識しているが、主流なメディアに取り上げられていない、変化した秋葉原のもう一面、既にそこに居たオタクの顔を見せることに意義があるのではないだろうか。本稿は、具体的な例を加えながら、オタクと秋葉原のより広い文脈を一つずつ見ていく。まず消費者であるオタクは経済活動から切り離して考えることは出来ないため、秋葉原とオタク経済の関係について述べ、次に本稿の主眼であるメディアとオタクの関係について論じる。まず、メディアが抱くオタクへの偏見について述べ、さらにそれが政治的な媒介によりどのように逆転したか、さらにそのイメージの変化が秋葉原とオタクそのものにどのように影響したか、最後に空洞化した秋葉原とオタクの未来という順で進める。


2. オタクと秋葉原の経済

オタク、そして秋葉原のオタク化という二つの現象は、メディアの普及と物理空間の変化から誕生した。逆に言えば、オタクと秋葉原は両方とも経済によって左右される存在だ。秋葉原商店街のウェブサイト[16](と森川)が提供している歴史によると、第二次世界大戦直後、秋葉原から上野までの地域は闇市であったという。とりわけ、この市場はラジオに関する珍品や良質のパーツがある場所として注目された。技術大学(現在の東京電機大学)が近かったので、秋葉原ではラジオを組み立てられる学生が多く、アルバイトとして一般の人のためにラジオを説明することや製作することもあった。米占領軍の命令によって、1949年に店は全て総武線の下に移動させられ、駅に近くて便利な集中技術市場、つまり今や知られている「電気街」になった。このような秋葉原は、日本全国を席巻した1950年代後半から1960年代にかけての「家電ブーム」の最先端であった。その当時、「三種の神器」はテレビ、洗濯機と冷蔵庫だと言われ、1958年から1966年の間、日本の家庭ではテレビが7.8%から95%に、洗濯機が20.2%から78.1%に、冷蔵庫が2.8%から68.7%に急増した。注目するべき点は、テレビの浸透だ。東京オリンピック、天皇の結婚式とアポロの月面着陸が放送されたため、テレビの必然性が高まったのである。電波ブームが起こっていた間、秋葉原は全国の家電市場の一割を独占し、より輝く将来の「家電生活」を求めていた家族の楽園だったと森川は指摘する。[17]

現在の意味で言う「オタク」は、その後に現れたのではないかと考えられている。オタクの起源は70年代後半に辿る。その理由は、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)や『機動戦士ガンダム』(1979年)のような大人も惹き付ける魅力を持つ複雑なアニメの登場と、その物語の世界に没頭することが出来るアニメ専門情報雑誌、例えば「アニメージュ」(1978年)の誕生である。[18]日本人ポップ・アーティストかつオタク評論家として有名な村上隆は、幻想に籠っているオタクと70年代に実現した社会問題の関係を指摘する。要約すると、学生運動の敗北、環境汚染、オイルショックと高度経済成長期の終焉、終わりのない戦争などに直面した若者の夢は、社会的目標から自己完結的なファンタジーに変化した、という。[19] ちなみに、「オタク学」の代表、岡田斗司夫の話によると、現在の日本のアニメ業界のリーダー達は60〜70年代当時は大学生などの若者で、既存社会に抵抗していたため、一般的な就職よりそれほど入り難くなかったアニメ業界で製作することを決めたという。[20]従って、大人向け思想やテーマが子供向けメディアに現れ、アニメは大人でも見るに耐えるようなものになった。1982年の『超時空要塞マクロス』の台詞においてオタクとういう言葉はメディアで使われた。[21]オタクであった制作者がお互いのことをそう呼び合ったからだとされている。[22]その後、VCRの普及によって熱心なファンはアニメを録画・収集・共有・研究するようになり、オタク世代が生まれた。

以上を換言すると、メディアとマテリアルによってオタクは生まれたと言うことができるだろう。それに加え、それは経済的な理由で促進してきたと述べたい。[23]少子化問題が進むと共に、縮小しない新しい市場を開拓する必要が生まれる。その市場とは、経済的に独立していて自由に金を使える成人の消費者の市場であった。大人にアニメや商品を買ってもらうため、制作側は大人向けの商品展開をするようになったと考えられる。これは用語[24]が生まれる程普遍的な戦略になり、アニメ業界は70年代からますますこの市場に依存してきた。例えば、難解なスペースオペラの『ガンダム』シリーズは、最初に商業的な大失敗になり放送途中で打ち切る一方、オタク達の支援、そして彼らによって達成されたプラスチック・モデル販売の成功によって、結局歴史上に残るクラシックなアニメになった。もう一つの事例として、魔法少女というアニメのジャンルも挙げられる。『魔法のプリンセスミンキーモモ』(1982年)は、表向きは少女向けという趣を持つのに対し、主人公のエロチックな洋服のデザインから、大人の男性を対象にしていたことは間違いない。いわゆる「大きいお友達」は今や魔法少女の一番熱心な視聴者である。この論理をもう一歩進めると、頻繁に批判される「ロリータ」オタク[25]は、実はマーケット戦略の結果にほかならないと考えられる。良いか悪いかは別にするとしても、ともかく情報・消費社会の結果がまさにオタクなのである。

アニメ産業の商売戦略と同じように、1990年代の不況に陥った秋葉原はオタクの経済力を誘致した。秋葉原におけるテレビゲーム[26]、VCRとコンテンツを中心にして、オタク的な人々は既に集合していた。森川が指摘したように、バブル経済の崩壊以後、電気製品のマーケットは郊外や通勤の軸となる駅に移動した。[27]寂れつつあった秋葉原は、商品をコンピュータに替え、一般の家族よりも専門家や趣味人、つまりオタクを対象に商売を始めた。社会規範や世間の視線から離れた秋葉原は、独自空間に変質し、そこに居る限りオタクが「恐れを抱かずに勝手に行動できる」ようになっていた。[28]90年代後半、爆発的な人気を得た『新世紀エヴァンゲリオン』の再放送によって、オタクが一般にも広まった。『エヴァンゲリオン』以前、キャラクターフィギュアの販売は3千個程度だったが、登場人物の綾波レイのフィギュアは3万個もの売り上げがあったと森川は述べている。 [29]その当時、秋葉原ではオタク向け店はまだなかった。[30]しかし、電気専門店が閉店するにつれ、家賃が安くなりニッチ産業が進出していった。[31]1997年、フィギュア専門店、海洋堂が東京ショールームを渋谷から秋葉原に移動すると、更に大勢のオタクが秋葉原へ移動し始めた。[32]森川が指摘するように、1962年に秋葉原の初めての高層ビルと家電生活の象徴として建設したラジオ会館は、オタクの商店街になった。[33][34]驚異的なことに、オタクの熱心な消費の中核になった秋葉原は経済的不況にもかかわらず、繁栄していた。[35]秋葉原におけるオタクは救世主のようであったかも知れないが、メディアに媒介されたイメージは肯定的なものからは遥かに離れていた。メディア・ディスクールを分析すると、オタクのイメージと事実のズレが明らかになる。


3. メディアから「おたく」への偏見

オタクとは、情報・消費社会の結果だが、だからといってスムーズに主流社会に受け止められたというわけではない。裏腹に、メディアにおけるオタク差別、あるいはオタク・バッシングは、オタクが現れたとたんに行われるようになった。1983年に『漫画ブリッコ』掲載された「「おたく」の研究」では、中森明夫が同人誌(素人によって描かれた小説・漫画などの雑誌・本など)の即売会に参加した若者の熱心さや容貌を激しく批判した。[36]彼はそういった人々を、「おたく」と命名した。ただ、『漫画ブリッコ』は小型のロリータ専門雑誌であったため、中森のオタクの使い分けはその当時それほど浸透しなかった。[37]オタクが広く認識された契機として、いわゆる「オタク殺人」、宮崎勤事件とそのニュース報道が挙げられるであろう。[38]4人の幼女に乱暴をし、殺害し、果てはその肉を食したと報じられる容疑者は間違いなく精神的に異常だったとされている。家宅捜索では、テレビ番組の録画、アニメ、ホラー映画など、約6千個のビデオが発見された。宮崎のような「異常」な人は「普通」の日本人と同質であること、彼の行動が制度の故障から生まれたということは、一般世間から拒絶・否定された。言説において彼は日本人と違う枠組みに恣意的に入れられ、そこに彼の倒錯的趣味は封じられていった。知識人が適当なメディアに密接な関係を持った堕落者を示す言葉を探したその結果、「オタク世代」は批判の槍玉に上げられた。[39]それまで「オタク」という言葉は無意味に等しく、実際逮捕された時の宮崎自身はこの言葉を知らなかったという。[40]しかしだからこそ、宮崎は多くの人にとっての最初で最後のただ一つのオタクのイメージとなった。『Mの世代:ぼくらとミヤザキ君』(1989年)では、中森はまたオタクについて否定的に書き、変質者という烙印を押した。つまり、オタクという無害な言葉は禁忌になった。宮崎の部屋にあったメディアの中には美少女アニメが存在し、彼は非常に熱心に消費し、まさに「純粋な消費者」の事例だと考えられる。このように、「オタク」では熱心な消費者という肯定的なイメージと非社会的存在という否定的なイメージ、その二つの摩擦はますます表面化した。ガイナックスの『おたくのビデオ』(1991年)では、このような緊張状態が如実に描写されている。作品は二つの部分に分かれ、半分は愛らしいオタクが「オタキングになる」目標をこころざして実現するアニメ、もう半分が、オタクの恐ろしい肖像を暴くドキュメンタリーである。ちなみに、「ドキュメンタリー」はほとんど「やらせ」で出来ている虚構である。

オタクのイメージの二項対立論は1995年に秋葉原で極端になった。1995年11月に開催したWindows95のイベントでは、秋葉原は「マルチメディア最先端の街」と呼ばれた。[41]街は80年代のように日本の最先端に戻ったように見えたかも知れないが、実は同年の少し前、新興宗教かつテロ団体のオウム心理教は秋葉原で「マハーポーシャ」というコンピュータ・ショップを経営していた。彼らは技術にとりつかれ、更にハルマゲドンをめぐるアニメ(例えば『宇宙戦艦ヤマト』)に大変影響されていた。 [42]一般的にはオウムは「オタク」のカルトとしてみなされた。[43]真実かどうかは別として、オタク差別は蔓延し、秋葉原はオタクとオウムが居ると言われるほど問題のある場所として扱われた。つまり、技術の街として尊重されながら、オタクの街として軽蔑されたのである。オウムが東京地下鉄にサリンをばらまいてから6ヶ月後、テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された。オカルトや宗教的象徴をはじめ、疎外された救済者達の目に見えない敵との戦いなど、オウムの思想や世界観に合致する点が多くあった。『エヴァンゲリオン』とオウムは、その魅力、つまり没頭しやすい完結的な別世界、という点でも同様であった。[44]しかしながら、『エヴァンゲリオン』は日本アニメ界を席巻し、前章で述べたように秋葉原の復活の大きな要素の一つになった。『エヴァンゲリオン』とオウムに見える世界作りはオタクの二つの可能性を示している、つまりメディアを消費して新しい世界を想像することと現実から堕落して既存の世界を滅ぼすことである。というのは、『エヴァンゲリオン』の今なお続く人気は、創造的なオタクを肯定する傾向を暗示していた。[45]しかし、2000年以降に起るオタク・秋葉原ブームの神髄は、ただの経済戦略を超えた、オタクを政策に応じる存在としての再構築だった。


4. 政治とメディアに媒介された「オタク」

日本におけるオタク・イメージが緊張状態にある一方、海外において「オタク」は日本の「格好いい」ポップカルチャーの一つ、とりわけアニメが好きな人の自称になりかけた。輸入アニメが普及するにつれて、SFのファン達や大学生の間でその認知度は高まっていった。1993年、アメリカの会社ANIMEIGOより『おたくのビデオ』の英語版が発売され、 オタクという語が急速に広がっていった。同年、パソコン雑誌「WIRED」の創刊号のカバーに「OTAKU」という単語が訳されずに掲載された。翌年、OTAKONというコンベンション(会合)が設立し、開始された。名前の通り、オタクによるオタクのための「オタク世代の」コンベンションである。1996年、米作家ウィリアム・ギブソンの小説『IDORU』にもオタクが取り上げられ、一般的なSFファンコミュニティが認識し始めた。一方、日本では、「オタク学」の代表であり宮崎事件後もっとも有名なオタク支持者であった岡田斗司夫が、テレビ番組スタッフに「オタク」は差別語になったため使わないように注意されていた。[46]しかし、正反対のことが、日本以外では発生していたのである。オタクは外国が憧れるクール・メディア・カルチャーの象徴になったと言っても過言ではないだろう。[47]

秋葉原はオタクの聖地として、世界中の観光客が目指す観光地になった。[48]70年代から続いてきた、電気街の中心である秋葉原中央通りの歩行者天国は、毎週日曜日には買い物とパフォーマンスをする人々でごったがえすようになった。前に述べたように、世紀末にオタクが秋葉原に殺到し、その結果、オタクを対象にしている路上アイドル、コスプレーヤー、オタク集団などは路上を独占してきた。中央通りのオタクは、例えば、外国人観光客が必ずと言っても良いほど目を通す『LONELY PLANET』などの旅行ガイドにも掲載された。筆者のツアーに参加した人々がよく言っていたように、多くの外国人はアニメなどのメディアに媒介されたオタクしか知らないので、オタクを自分の目で見るために秋葉原に来ている。これは実は、それほど驚異的な発言ではないかも知れない。JETRO(JAPANESE EXTERNAL TRADE ORGANIZATION)によると、世界に放送されるアニメの6割は日本製である。2003年では、アメリカだけで約50億円(5億ドル)分のアニメを消費したという。[49][50]JETROの2004年の報告書によると、1992年から2002年の間の平均輸出成長率は20%だったのに対し、クール・ジャパン(アニメ、マンガ、音楽、ファション、邦画)の輸出成長率は300%だったと彼らは強調する。もはや日本のイメージは広く消費されているメディアにより構築されているのではないだろうか。それに、2005年に発行された野村総合研究所による「オタク市場の研究」では、172万人に上ったオタクが毎年4,110億円分の商品を購入しているとしたので、[51]オタクへの関心が更に高まった。MITI(MINISTRY OF INTERNATIONAL TRADE AND INDUSTRY、現在の経済産業省)もそう解釈したと考えられる。2005年の報告書では、「コンテンツ産業による波及効果は経済・文化の双方から国家ブランド価値増大に貢献」すると述べている。[52]麻生太郎、当時外務大臣は秋葉原を訪問して世界を闊歩する日本のポップカルチャーの影響力について発言を始めた。[53]彼にとって、日本の国際的な文化はもはやオタクのものだった。2007年9月16日の秋葉原の演説では、「「オタク」のおかげで日本の文化、サブカルチャーといわれる文化は間違いなく世界に発信されているんですよ。」と強調した。[54]国内で負け組の代名詞だったにもかかわらず、海外で人気が集まったオタクは日本ブランドに包括して認識されてきた。例えば、大手の旅行会社JTBは『COOL JAPAN:オタク・ニッポン・ガイド』という本を出版した。日本のポップカルチャーを海外に発信し、関連する産業を国内で支援する第一一歩を踏み出したところであり、クールで創造的で熱心な消費者であるオタクへの態度は変わりつつあった。

技術の最先端としての歴史を持ち、コンテンツ産業の象徴となり、そしてオタクの聖地となった秋葉原は日本のポップカルチャーというブランドを創造する最も適切な舞台であった。[55]秋葉原とオタクのイメージの変革は2005年に放送されたフジテレビ系テレビドラマ『電車男』に見られる。主人公はいわゆる「アキバ系オタク」であり、撮影のロケはしばしば秋葉原で行われた。勿論、秋葉原にたむろしているオタクの話だけであれば、恐らく話題にはならなかっただろう。しかし、『電車男』はオタクとOLの恋愛物語で、まるで『美女と野獣』や異人種間の禁断ロマンのような逆説的な魅力があった。『電車男』は、童貞のオタクが泥酔したサラリーマンに痴漢されたOLを助け、彼女をデートに誘うためにオタクが多く集まるウェブサイト「2ちゃんねる」のユーザーから助言を貰い、自分の外見を変え、彼女のために贈り物などを買い、最終的にオタクを卒業して社会人として彼女と暮らしていく、という物語である。[56]このようなオタクは、アキバ系と言っても、実はオタクである自分を恥ずかしく思い、同人誌や成人向けゲームより卑猥でない商品を好み、メイド喫茶に通う社交的な存在である。少なくとも彼は捻くれたオタクのイメージとは違う、愛らしいナイス・ガイである。このあり得ない恋愛物語は実話とされており、(実際には恐らく実話ではなかったのだろうが)爆発的な人気を博した。最終回は全国聴視率の25.5%を記録した。[57]筆者の視点では、『電車男』は社会人が意外なパートナーであるオタクと恋に落ちる話で、日本がオタクを再評価することを反映している。まさに、オタクが「クール」である限り成立する、日本とオタクの間のぎこちない関係であり、その関係のドラマは秋葉原の路上で展開している。オタク自身は『電車男』に登場した新オタクへ反発し、例えば『電波男』[58]や『アキハバラ@DEEP』の反『電車男』論などが現れたが、マスコミによる「オタク・ブーム」の過熱報道によって黙殺された。中川翔子といったオタクが有名になると共に、オタクの実体と歴史は都合の良いことに忘却されてしまった。

『電車男』は否定的なオタクの固定観念を払拭した上、秋葉原のメディア化と観光地化を促進した。[59]いわゆる「アキバ[60]・ブーム」の初期では、秋葉原には撮影制限がなかったため、非常に安価に番組製作が出来た。ニュースをはじめ、バラエティなど、「オタクの個室」を覗いてみたいと思っていた視聴者の前に、それは登場した。その結果、オタクの個室、つまり彼らにとってプライベート空間であった秋葉原は、奇妙なぎこちなさと共に公開され、オタクが好奇の目に晒された。中央通りでは、メディアに洗練されたオタクの幻想と、それの混乱・転覆を引き起こし続けたオタクの現実の間に更なる距離が出来た。キャスターが番組にオタクを求める限り、たとえ一時期であっても、オタクは有名人のように扱われた。例えば、情報提供者の一人、肉体労働者である若い男性は、『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメの主人公である女子高生の制服を着[61]、彼女のように秋葉原の路上で踊っていたという理由で「ハルヒ」と呼ばれてきた。勿論、ハルヒの休日の秋葉原での活動は家族や仕事の同僚には全く知られていない。しかし、秋葉原に来たメディアは、話題になるオタクを探していたため、度々彼を勧誘した。その結果、ハルヒは頻繁にテレビに出演し、秋葉原での個人的な活動は、公のパフォーマンスに変化していった。事例をあげると、2007年の夏に、彼と50人の仲間は中央通りの歩行者天国において大規模なハルヒ・ダンスを実施した。撮影されたビデオはすぐにインターネットに流され、オタク文化の現状がうかがえる国際的な話題作になった。[62]他方、秋葉原のオタク化へ危機感を抱いた住民が迷惑行為として抗議したため、警察官の取り締まりは厳格化した。職務質問や荷物検査が行われるようになるに従い、オタクは秋葉原に来なくなった。以前のように個人的な活動を望んでいたオタクは、他人に見られるのを嫌がり、開放的な秋葉原より閉鎖的な空間へ避難した。2007年後半に発表されたNHKの調査[63]によると、秋葉原の人口の30ペーセントはオタクだったが、観光客も30%を占めるようになった。秋葉原はオタクだけの地域ではなくなり、オタクを見る観客の存在が大きくなった。

そんな中、クール・ジャパンの政策によって日本政府観光局(JNTO)はオタク観光を促進する方向に動き出した。オタクが消失しつつある中で、JNTOはオタクの存在に重点を置き、英語版ウェブサイトで「オタクの聖地」秋葉原へのツアーなどを紹介してきた。[64]つまり、日本におけるオタクの現状を考えず秋葉原におけるオタクのイメージを搾取して利用しようとした。2007年のJNTO調査によると、訪日外国人の8.6%[65]が秋葉原を訪れたことが明らかになった。驚くべきことに、秋葉原に来た人の69%は初めて訪れた人々だったという。[66][67]NHKの調査によると、秋葉原の人口の 約5%も外国人だったが、筆者の体感ではより多いと思われる。海外から来た観光客の現場の秋葉原や現実のオタクへの憧れは、『MOE USA』(2007年)に出るほど普遍的になった。















5. イメージの変化と秋葉原への影響

熱心な消費と国際的な人気という二つの理由からオタクのイメージが再構築されてくると同時に、オタクとクール・ジャパンの象徴になった秋葉原の再開発は進んでいった。町風景と都市空間を計画的に作り出すという思想は、新自由主義のいわゆる「町づくり」や「美しい日本」にも反映されている。秋葉原の再開発プロジェクトは東京の下町の再開発の一環で、2016年五輪招致のための東京美化と関係がないとは言えない。東京国際アニメフェアに見られるように、東京都知事石原慎太郎はアニメの魅力と日本ブランド性を認識している。そこから、アニメやオタクをめぐるカルチャーの中心、秋葉原に注目したと考えられる。実は、秋葉原の電気街の中央通りに沿ってサブカルチャーとポップカルチャーの間にはっきりした境界線が存在する。昭和通りと中央通りの間は、再開発地域として多くの高層ビルなどが建設されたが、それに対して中央通りの反対側はまだニッチ産業や専門店が多い。[68]

具体的に言えば、この対立した秋葉原はメディアの影響が強くなった2005年から始まった。同年、再開発地域に当時最大のヨドバシカメラとつくばエクスプレス線が出来た。前者は、決して秋葉原らしくない、森川が言う郊外やターミナル駅にあるはずの電気専門店である。後者は、ロボットや技術研究が有名な大学と中流階級の住宅地がある場所だ。この二つは「アキバ系」に対して「つくば系」と呼ばれてきた。つまり、これらは秋葉原とオタクと異なり、新しい方向を表現する。もっとも、秋葉原の歴史上では最先端の技術と電気街を支えた家族の存在が大きく、オタクも90年代の経済的不景気で増殖した新しい存在と言うこともできる。だとすると、秋葉原は本来の注目される公の場所に戻りつつあるとも言える。家族、サラリーマン、高層ビルといったつくば系は、秋葉原に主流社会に存在している力関係が戻ってきたことを示唆している。故に、都市の形は再び、オタクの個室から公の広場へと変貌している。実は、2008年1月にデジタルハリウッド大学で開催された秋葉原の新営業者向け会議では、千代田区議会議員の小林たかやはオタク現象を抑えて初めて秋葉原の明るい未来が開けると主張した。そしてそのイベントに参加した筆者にコンテンツ産業や「メガ・ビル」に基づく将来像を説明した。小林が言及したつくば系の台頭は2005年から2007年にかけて三つの高層ビルの建設に見られる。その中に、情報通信コングロマリットNTTによるUDXビルが含まれている。注目が集まり開発者や企業が殺到したため、秋葉原の地価は2006年から2007年にかけて20.4%も上昇した。[69]もはや再開発は昭和通りの側だけではない。中央通りの外側にも、贅沢なマンションとオフィスビルが建設された。驚くべきことに、その再開発された土地は、強制閉店したオウム真理教のコンピュータ店の跡地と言われている。一部の秋葉原の歴史は忘却されている。同様に、麻生は秋葉原で遊説し、アキバ系オタクの支持を集めたが、「クール」になったオタクのイメージは一般の支持を集める障害とはならず、2008年9月に総理大臣に就任した。


6. イメージの変化とオタクへの影響

ここまで、秋葉原における「オタク」のイメージの変化、非社会的なサブカルチャーから「クール・ジャパン」文化の象徴への基本的なイメージ・シフトを説明してきた。本章では、オタクへの影響を具体的に明らかにしていきたい。[70]結論から先に言ってしまえば、現実のオタクは想像されたオタクのイメージの素早い変遷についていけなかったので、摩擦が生じてきた。多くの日本人がオタクの個室を初めて見たのは幼児殺人の宮崎の閉鎖的な部屋だったが、十数年後、子供連れの家族が秋葉原という公開されたオタクの個室で遊ぶようになった。このような状態で不安が出ることは当然である。小林によると、依然として5千人の秋葉原住民はオタクへの抵抗感を感じ、頻繁に警察と議員に訴えている。勿論、ごみ、騒音、混雑、猥褻、万引きなどという不満の原因も依然存在する。オタクはメディアと観光客にその存在が期待されているにもかかわらず、「迷惑」だからである。小林自身は「変なオタク」と冷静なオタク消費者を区別しているが、ともかく、オタクを管理する必要を認めている。ハルヒの例に見えたように、警察は街に出てオタクを監視するようになった。

この状態を理解するためには、秋葉原で最も公に注目されている場所、中央通りを分析することがふさわしい。2008年に、中央通りで行われていた歩行者天国は、二つの事件によって大きく変化した。一つは路上アイドルが起こした大混乱で、二つは秋葉原通り魔事件である。社会的反応と経済的反応の摩擦から、オタク対策の矛盾が明らかになる。小林によると、秋葉原住民の中で路上アイドルへの抵抗は以前からあったという。このようなアイドルとオタク的熱心なファン(特に「オタ芸」というダンスをする人々)は迷惑行為で商売に悪影響を与えているからである。しかし、大騒ぎにならない限り、路上アイドルとオタクが観光客を招く側面もあるので、「普通」と「変」が同時に存在する秋葉原は危ういバランスをとっていた。2008年、あるアイドルの不適切な行為によって秋葉原のバランスが崩れた。自称「セクシーアイドル」沢本あすか[71]はファンのためにスカートをあげて下着を見せる行為をした結果、大人数の男に囲まれて中央通りの通行を妨害した。このような恥ずかしいイメージがメディアに取り上げられたという理由で住民は警察を呼んだ。4月25日、メディアの前でポーズをとった沢本は警察に逮捕された。[72]様々な番組は秋葉原のいわゆる混乱に注目し、全ての路上アイドルとコスプレーヤーの衣装を批判した。








反「路上アイドル」デモ行進が行われ、オタクへの反感が拡大し、歩行者天国は一時的に中止されたにも関わらず、5月4日にUDX ビルで「AKIBA–おたくまつり」が行なわれた。管理された秋葉原の空間で、アイドルが演奏し、オタクを誘致する一方、衣装や行為について「やりすぎないように」注意された。当然、ハルヒのような「変なオタク」は完全に排除された。「AKIBA–おたくまつり」の意図は家畜化、あるいは動物園化であった。つまり、素直なオタクを提供し、メディアと観光客を招待することだった。

オタクが「クール・ジャパン」の舞台になった秋葉原から完全に排除されるきっかけとなったのは6月8日の秋葉原事件である。この事件は秋葉原の住民の寛容の限界を超えた。派遣社員として働いていた加藤智弘は日曜日の秋葉原の歩行者天国を訪れ、大型車やナイフで7人を殺害した。最初の報道では、加藤容疑者は絶望に陥った「負け組」の例として受けとられたが、携帯電話で3千回モバイル掲示板に投稿し、アニメやゲームに興味があったことが公表されてから、状況証拠でしかないにも関わらず、彼は「オタク」と呼ばれるようになった。[73]中央通りで起きた悲劇から若干1週間で、「オタク殺人」宮崎勤の死刑が執行され、[74]オタクはまたニュースで否定的に扱われた。6月26日、秋葉原の警察はナイフを持っていた男を逮捕した。これで、いわゆる「武装オタク」を対象にして取り締まりを厳しくした。秩序回復のため、警察官が大量に投入され、オタク的な人々に職務質問するようになった。因に、なぜオタクが(主にレプリカの)武器を持つかというと、オタク狩り[75]、オタクから金を強奪する人から保護するためである。つまり、秋葉原の公開によって増えたオタクを搾取する人が居たので武器を持った。これは加藤容疑者と直接関係がなかったが、彼はナイフを持って被害者を襲った「オタク」だったので、オタクに悪影響を与えた。オタクという言葉は秋葉原で再び否定的になってしまった。一年前に秋葉原におけるオタクとの関係で好感度を高めた麻生太郎は、「オタクに媚を売る馬鹿」として批判されるようになった。そのような世論の転換は秋葉原とオタクにも起き、千代田区議会の命令によって、35年間続いた歩行者天国は無期限に中止された。[76]

2008年の夏以降、秋葉原を訪れる観光客は国籍や人種を問わず同じ質問を繰り返す。「オタクはどこにいるの?」[77]事実、日本の政府が韓国、台湾、中国、香港、米国、英国を対象にクール・ジャパンの観光を発信しているのに、実際に秋葉原にきてみると失望した、という回答が韓国、英国、米国に多く見られた。[78]2007年、秋葉原は日本全国で薦めたい場所の15位だったが、一方、期待はずれな場所では8位だったという。[79]秋葉原住民はこの状態を認識するようになったので、あきば会などの街の復活を求める団体が現れている。小林もその運動の一員である。しかし、管理されたアイドルとオタクのスペースやイベントは、決して魅力的ではないようである。初めての「世界のアキバ祭」は2009年3月に開かれたが、数百人しか来なかった。その中で、筆者が以前の調査を通じて知り合ったオタク、そして外国人は数人だった。


7. 秋葉原から追い出されたオタク

「アキハバラ開放」。短絡的なモットーでありながら、その言葉を信じた500人は2008年6月29日に秋葉原で集まり、デモを行なった。リーダーの「シュウちゃん」は再開発以前の秋葉原について熱く話した。彼によると、秋葉原は特別な場所なので疎外された人でも受け入れる。夢の居場所、ということだ。彼の言葉と行動はマスコミに完全に無視された。[80]森川などの秋葉原の若いオタクを懐疑的に思う人も、アキハバラ開放デモを無意味な見せ物として却下した。[81]結局、多くの秋葉原オタクと同様にシュウちゃんと彼の行動の形跡はイメージに過ぎない。















「クールなオタク」は日本中どこにも存在しなかったにも関わらず、力関係と視線の交差によって秋葉原でそのイメージが形成された。日本と海外のポップカルチャーの消費と一緒に想像されたオタクのイメージは、その人達の現実とは切り離され、一貫性のない葛藤に繋がっている。一方、オタクは熱心な消費者、国際的な大衆文化の創造的な核、そして文化商品として肯定されると同時に、「変」で危険なイメージは根強い。秋葉原がスラム化するか高級住宅化するかに関わらず、どちらにせよオタクは排除されていることに間違いない。オタクがクールなイメージになるほど、現実の人の存在の必要性がなくなるわけである。救世主のイメージと堕落者という固定観念の緊張を緩和するため、オタクの存在を遮蔽していく、それが秋葉原で発生している現状だ。皮肉な事に、オタクの際限ない混沌は、クールなカルチャーとコンテンツの根拠となる独自性だ。クール・ジャパンが内容のないイメージであると同様、オタクのいない秋葉原は空洞である。


ノート[1]--[81]

4 CommentsComment Page 1 of 1

RB wrote on 14.10.2009:

Patrickさん、回答ありがとうございます。海洋堂の件、なるほど地価が大きく影響したのかもですね。それと、96年頃から渋谷は茶髪、ロングヘアー、ミニスカート、細眉、厚底ブーツなど、よりギャルファッションの街になってきて違和感を感じ始めたのかなあという気もします。ちなみにネットでちょっと調べたら、海洋堂は84年に茅場町(!)に出店、86年に渋谷へ移転したそうで、11年も渋谷にいたということにちょっと驚きました。

それと、パソコンとオタク向けの店はゲームでつながるわけですね。なんとなく分かってきました。

論文の中で、「オタク」が放送禁止用語だったことがあるという文を読んで、(ああ、そういえばそんな時期もあったなあ)とかなり久々に思い出しました。はっきりとは覚えていませんが、90年代後半~2000年頃は「オタク」イコール「ロリコン」という認識だったという記憶もあります。その頃は、オタクと呼ばれるほど屈辱的なこともなかったんです(笑)。

いつかPatrickさんとも直接話が出来ればうれしいです。もっぱらアキバに興味があるので、アニメ・漫画については突っ込んだ話になるとついていけないと思いますが(^^;;;;;

Patrick wrote on 12.10.2009:

RBさん、コメントどうもありがとうございます!確かにおしゃった通り、海洋堂の渋谷から秋葉原への引っ越しは少し不思議だと思います。しかし、渋谷は「一般人」の街であっても、アメコミといった輸入された文化の街であっても、どちらにせ「エヴァ」の影響で台頭した「オタク系」文化の街ではなくなったかも知れません。それだけではなく、当時の渋谷と秋葉原の地価を比較してみれば、海洋堂の引っ越しはわりと合理的だったと言えましょう。それにメディアによる「おたくバッシング」を加えてみれば、やはり渋谷から逃げたい気持ちはあり得るのではないかと思います。(もはや私も渋谷などに行きたくはないですし!)

連続性についてですが、秋葉原の成長にはかなり一貫性があると思います。レジオから家電、家電からパソコン、パソコンから「オタク系」文化へ、ということでいかがでしょうか。例えば、パソコンにアニメを加えたら、ギャルゲーなどが出てきます。森川先生によると、90年代の秋葉原では、おたく向け商品と言えばギャルゲーと同人誌でした。なんとなく街の連続性、つまり経済的に競争出来るように市場を変えること、が見えますが、その変化は簡単ではありませんでした。社会や政治など、様々な観点から秋葉原が見られて来ました。「変」なおたくの存在を消せるよう、その人々はどこからなぜここに現れたか聞きません。そのため、連続性が見えなくなるのではないかと私は思います。

いつか秋葉原でRBさんにお会い出来たら、もっとお話しましょう!どうぞ宜しくお願い致します。

RB wrote on 12.10.2009:

「オタク」という言葉の起源、変化、アキバが変貌した理由、オタクとアキバとの関係性、日本と海外でのオタクというイメージのギャップなどが分かって大変に興味深い論文でした。

オタクという言葉は情報・消費社会の爛熟の産物であり、ある種の「記号」です。またそれは、自由な資本主義経済にあって、どのようにでも姿を変えて流通していく「イメージ」そのものだと思います。Galbraithさんの指摘通り、イメージとしてのオタクは経済的・社会的・政治的な理由で都合よく扱われ、もうすっかり手垢にまみれています。時代やその時の状況によりオタクのイメージは悪化したり好転したり、きりが無い。それゆえ、一部の学者やジャーナリストのようにオタクという言葉を定義付けようとしたり、「よいオタク」「悪いオタク」・・・などと分類したりすることは、あまり意味があるとは思えない。

いずれにせよ日本はTVというメディアの影響力が非常に強いので、イメージとしてのオタクがどう変化していくかはTV局がどう取り上げるかに左右されるのではないかという気がします。TVが垂れ流すイメージに影響されていることを自覚していない人々は、次から次へと変わっていくオタクやアキバのイメージをつかまされているだけだと思う。勿論、そのイメージにはさしたる意味は無く、昔誰かが言ったように「あるのは差異だけ」なのですが。

論文の最後、「クールなオタクは日本中どこにも」~「秋葉原は空洞である。」でGalbraithさんは、現在のアキバがおかれた状況を的確に分析していると思います。特に「オタクがクールなイメージになるほど、現実の人の存在の必要性がなくなるわけである。救世主のイメージと堕落者という固定観念の緊張を緩和するため、オタクの存在を遮蔽していく、それが秋葉原で発生している現状だ」という一文は、そう頻繁にアキバに行くわけではない自分にもこの街の状態を理解させてくれた。

私はアキバの近くに1年間住んでいたこともあり、この街が今後どのように変化していくのかとても興味があります。初めて来た時は、なぜ1ヶ所に同じような電気屋が集中しているのか、不思議な印象を受けました。大手メーカーの家電製品を売る店、パーツ屋などの違いはあるがほとんど同じような物を同じ値段で売っている店が沢山ある。なぜ淘汰されずに共存出来るのか不思議です。普通に考えたら、駅から遠い順に潰れそうなものですが。弱肉強食という言葉は、ここでは当てはまらないのかと思ったものです。

しかし、ちょっとよそに目を転じればアキバのように似た店が立ち並ぶ街は都内にいくつかあります。楽器屋が集まる御茶の水、書店が180軒並ぶ神保町、路地裏などにもアパレル関係がひしめく原宿、洋楽のCD・ブートレッグ屋が集まる西新宿など。もっとも、西新宿はネットの普及もあってか、かなりの数の店が消えましたが。これらの街でも、ほとんど同じ商品をほぼ同じ値段で売っていることが多い。淘汰はさほど激しくなく、だいたい共存している。話はずれますが、全国の有名な観光地に土産物屋がたくさん立ち並んでいるのを見たことがありますか? ここでもやはり同じで、それらの土産物屋は、ほぼ同じ物を、同じ値段で売っているケースがよくある。このように日本では1ヶ所に同じような店が集中して、「○○街」とか「○○ストリート」などとして知られている所がある。アキバはその代表のようなもので面白い。それにしても、海洋堂がなぜ渋谷からの移転先にアキバを選んだのかは、よく分からない。ファッションの街である渋谷の中では、たしかに海洋堂は異質ですが、アキバなら上手くいきそうだと思った理由は何だったのか? 考えてみれば不思議です。

ところで、電気屋街のアキバにPC関係の店が増えてきた時は、ほとんど違和感は感じなかった。つまり、連続性があるように思えた。が、「オタク」向けの店が増えてきた時には、それまでのアキバの変化とは異なる、何か全然別のことが起きているようだと感じました。そして直にアキバを見た時は事態が飲み込めず、「この変わり様はいったい何なんだ?」と目を白黒させたものです。それは家電製品とかPCといったハードを売る街から、漫画・アニメ関連の商品というコンテンツとそこから派生したフィギュアなど、ソフトとハード両方を売る街へと変貌していたからです。加えて、コスプレや路上パフォーマンスをする若者が集まったり、メイドカフェなど新しいサービスを提供する店も出てきたと知ったときには、ほとんど連続性が見えなかった。そして、今また巨大資本による再開発で街は変わってきている。今回もやはり連続性を感じることの出来ない変化であり、2000年代になってからの変化は「非連続の連続」という印象が強い。どちらにせよ、ここ数年の再開発はアキバ始まって以来の大きな変化ではないかと思います。

個性的とは言い難いガラス張りの高層ビルが増えて、アキバが普通のオフィス街になっていくのは寂しい気もするが、都心で交通アクセスが非常に良いことを考えれば、むしろ秋葉原再開発は遅過ぎたのではないかと思う。この街には70年代からの古いビルが沢山あるが、それらはそう遠くないうちに消えてしまうのでしょうか?

0ne wrote on 13.5.2009:

Excellent stuff, Gaikoku-san!

Please keep these articles coming :)

Love your site!

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